先日にNHKで放送された「ETVワイド ともに生きる」では障害を持った当事者と支援者の生々しい声を聞くことができました。障害福祉運動の先駆者の話も聞けて、とても内容の濃い番組となっていました。
この放送の中で筋ジスで呼吸器を使用している青年が「クラシックコンサートに行ったとき、近くの観客が呼吸器の音が気になるといって、会場のスタッフに苦情を訴えられました。スタッフが自分の所にやってきて、他のお客様のご迷惑になっているので退場してほしいと言われて、仕方なく会場を出ました。呼吸器は生きる為の体の一部なのに、理解のない現状に悔しい思いをした」という話をされました。
「そんなのおかしいじゃないか!と言わなければいけない場面なのだろうけど、そこでスタッフと口論になって余計に回りに迷惑をかけてはいけないと思って、黙って会場を出た」と付け加えられました。
司会の町永アナウンサーは「自分は知らなかったけど、静かなところでは呼吸器の音ってそんなに気になるのですか?」と確認を取ってから、会場の支援者に意見を求めました。
この時、「それはひどい、なんて理解のないお客さんがいるのだろう!」と簡単にこの問題に答えをださなかった司会者はさすがだと思いました。
意見を求められた20代の青年は「以前の自分なら気になったかもしれないが、今の自分は障害のことも呼吸器のことも知っている。だから、その場にいても呼吸器の音は気にならないだろう」と言いました。
これに司会者の町永さんと番組に深く関わっている当事者の牧口さんは反応されました。
「本心かなあ?」「それは我慢するってこと?」「自分の好きな歌手のコンサートだttら?高いお金を出して観に行っててそう思える?」「あなたは気にならないと言っても君の友達ならどう思うか想像してみて」
と、彼をいじめるのかという勢いで質問を浴びせました。
彼は「我慢とかしょうがないとかいう気持ちではありません。理解といったらいいのか、自分は普通に気にしません」と応えていました。
町永さんや牧口さんが何を言わせたかったのか分かるような気がします。
そもそもコンサート会場で苦情を訴えたというお客は本当に障害に理解がなかったのでしょうか?
理解しているからこそ、自分ではどうすることもできず、スタッフに訴えられたのかもしれません。
クラシックの世界は独特のものがあって、小さな子どもはコンサートに来ることができないし、演奏中は鼻をすすることもできません。風邪気味であれば、鼻水をダラダラと流しながら聞くか、せっかくのチケットでも無駄にせざるを得ないこともあります。
ロックやアイドルのコンサートを例えて話すことはできません。かけがえのないコンサートという点では同じかもしれませんが、会場の環境はクラシックを知るものでなければ想像のつかないこともあります。
町永さんはそれを知っていたのではないでしょうか。だから「これは難しいですね…」と言いあらわしました。そして周りに意見を求めました。
クラシックの世界では、演奏中に呼吸器の音が聞こえるということは、「その人が生きる為のものだから」と理解していても、「気にならない」というのはあり得ない。
そこには「我慢」とか「妥協」とかいうものが必ず発生してしまう。でも「我慢」とか「妥協」とかいうものが解決にはなりません。不自然なんです。
周囲が我慢している土台の上で生活する、自分が生きることで周囲が迷惑をする、そんなことに耐えられますか?でも障害があるからといってクラシックのコンサートにいけないのもおかしい。それは普通(ノーマライゼーション)ではありません。
だから、コンサート会場で苦情を訴える人がいたこと、筋ジスの青年がクラシックの演奏を聴けなかったこと、どちらも確かな現実だと受け止めることが大事なのではないでしょうか。
そしてそこから、誰もがクラシックの演奏を楽しめるようにするにはどうしたらいいのかということが考えられるのだと思います。例えばそれは会場の設備の工夫かも知れないし、主催の考え方の転換かもしれない。なんにせよ考えることから始まると思います。
個人的な意見なので、なんの説得力もありません。言いながら誰かの声で確かめたいと思っています。
来年1月にこの放送に寄せられた視聴者の声を特集した番組を予定しているそうです。
より多くの声に耳を傾けたいと思います。
ラベル: 福祉